気がつけば、もう冬。
急に感じる寒さに寂しさを感じつつ、季節は本格的に冬へ冬へと向かっていく。
「パッと浮かぶのは、ただよう…かな」
イマココの感情を表現してくれました。
いつも、あたたかく、やさしい雰囲気を身にまとう、あむさんのイマココを聴きました。
うつろっている
あむさんは、子どもの居場所支援を行うNPO法人で働きながら、狛江市にある多世代交流の居場所づくりのスタッフをしています。
今の自身の状況や心情を”うつろっている”といいます。
「前の自分と今の自分がうつろっているタイミング。ネガティブな意味ではないのだけれど、ふわふわしている感覚です」
今までもうつろい、ただよっていた。しかし、そのことに気がついていなかったといいます。
「これまでずっと、ただよっていて、ただ、その”ゆらぎ”をおさえながら突っ走っていた感覚がありました。今は仕事も他に関わっている居場所も、ベースは楽な状態で無理がないです」
あむさんの話す楽な状態、それは”ここにいることに意味がある”という感覚。
「ここに来る意味とか何かをなすとかではなくて、ここにいることに意味があるという感覚です。意味がなくてもいんだけれど、大事にしようと考えています」
それは自分自身についても当てはまる。
「自分自身に対しても、なにかをしなければならない、という気持ちが薄れてきています。楽でいられるような、いばしょに自分が溶けている感覚があります」
一方でその状況に対して、完全に不安がないわけではない。年齢的な部分、お金の面も含め、周りの普通とは全然違う働き方をしていること。そうした不安に突然おそわれることもあります
襲われる感情は他にもあります。
自分の時間、他の人との時間について。
「誰かと一緒にいることと一人でいることの時間のバランスがうまくとれていない感覚あります。一人が悪いわけではないし一人の時間も必要だけれど、大事にしたい気持ちはありつつ、究極の寂しさみたいなところもあったりします。漠然とした不安があって、悩みや痛みが出てきたときに自分の感情がうわーってなったり、気づくと疲れていたり、心がグラグラしたり…」
うまく言葉にならないけれど、と言いながらあむさんは続けます。
「当たり前だし健全だと思うけれど、自分が大事に思っている人には別の大事な人がいる。自分がいなくても、結局他の友達には、恋人とか親友とかの他の誰かがいて…時々自分の存在が透明になる感覚があるんです」
透明になる感じ、あむさんは表現します。
何かを為そうとしすぎない
あむさんが東京に戻ってきたのは今年。
大学院を卒業後、約二年間三重県で働き転職を機に東京に戻ってきたのです。
大学・大学院時代を過ごした東京に改めて戻ってきて、感じることがたくさんありました。
「三重という知らない土地に行ってつかれている部分もあったなって。自分は東京出身じゃないけれど、なんでも気兼ねなく話せる人の多くは東京にいるから、帰ってきたんだなと改めて思ったりもします。友達がいるっていう意味では故郷だなと」
先ほど聞いた通り、あむさんはNPOで子どもの居場所支援を週3日、居場所のスタッフを週2・3日行われています。
週5日程度動いていく日々の中でも、”良くも悪くも何かを為そうとしすぎない”その感覚になれたのは最近のことでもある。
「”何かをなさなくてはいけない”とか、意味や意義を追い求めていた時期があったのだけれど、その人が来てくれたというだけで、その人にとってきっと意味があると思えるようになったんです。理由や意味がなくてもいいんだけれど、何か大切なものがあるんだなと」
それは、”してあげている感”ではない。理由がなくても良い、ただ一緒にいることに意味がある感覚だといいます。
中学・高校から感じていた存在の不安
何かをなそうとする焦りのような感覚。その感覚を辿っていくと、あむさんの中学生の頃にいきつきます。
「中学生ぐらいから、誰かのために何かをなすことが価値だとか、自分の発信で何かをすることが自分らしさや自分の立ち位置だと思っていた部分もあったんです」
存在の不安みたいな部分があって、焦りにつながっていたのだと話します。
そして、それは高校、大学、社会人へと進んでいく中でも続きました。
「今思うと、一杯一杯だったなって。中高のがんばっていた自分と比べて、もっと頑張れるんじゃないかと自分を追い込んだり、同世代でがんばっている人がいる時に、もっと自分もやらなくちゃと思い込んだり」
目標を書き立てたり、予定を詰め込む日々。家でボーッとしているなんて意味がないみたいな焦っていた感覚があった。
加えて、周囲に素敵な人がいるからこそ、こんなに素敵な人と繋がらせてもらって、なにかしなくてはいけないみたいな思い込みや焦りもあったという。
「人に同じ悩みを言われたら誰かと比べなくていいよと言えるけれど、結局自分が比べているんだなって思って」
その感覚が徐々に変わっていたのが最近だ。
「自分の存在に意味を求める感覚はまだあるけれど、ちょっとずつ溶けている感覚があって、それが一番楽なのかなって」
自身の興味の対象に関しても同じである。
「自分自身も変化して当たり前なんだとなかなか思えない時期もあって。興味も移り変わったり、自分のペース感とかやりたいこととか変わっていくのは当たり前だし。無理に一本線になっていないといけないみたいなのが社会では強いなと」
確かに一般的には、キレイなつながりがあると良しとされる感覚はある。これをやったら、これにつながって、そこには原体験や、挫折、努力などがあったりもする。
そのつながりがないことへの不安があったのだと言います。
「今だったら自分の感覚と言う軸が全部つながっていたら、やっていることのそれぞれがバラバラでも大丈夫なんだろうなって思えるけれど、当時はこんなんで就活どうするんだと言われたり、一本じゃないとダメ、みたいなのに縛られていたと感じます」
そういう以前の考えかた変わったと実感したのが大学時代の友人と話していたとき。
「あむさん自分を苦しめなくなったですねと言われたんです。その時、確かに自分を追い込まなくなったり、自分に変にプレッシャーをかけなくなったのかもしれないと思いました」
逆境を超えて乗り越えてみたいなわかりやすいストーリーではない。だからこそ自分でも大事にしたい、そう話します。
今の積み重ねの未来
転職をした、あむさん。これからについて、話してくれました。
「一年後や三年後とかの未来像は無くて、それはそれで不安に思う時もあるけれど、今を重ねていったら結果的にある未来にやっとワクワクできるなと言う感じです」
よく聞く未来像は目標や未来があり、そこに向けて進んでいくもの。
一方で、あむさんが今考えているのは、今の積み重ねである。
「目標の未来に向けて進んでいくのも大事だと思うけれど、いまの社会の価値観がそっちに偏っているのかもしれないと、子どもたちを観ていて思って」
あむさんは続ける。
「未来を決めてそれにいまの心を持っていこうとするのではなくて、ただよっている・うつろっているいまの自分の心に敏感でいて、その時々を味わい尽くした先にあるものを観たいなと思えるようになったんです」
その考えを育んだのは、前職の野外保育の仕事の経験。子どもから教わったことが大きいといいます。
「子どもって心と身体がつながっているから、心が動かないと身体が動かないことがあって」
印象的なできごとがあったといいます。
それは雨の日に畑に行こうとした時の話
「まだ6月ぐらいの頃。雨だったので、畑に行くのをゴールにしてしまうのは厳しいかなって」
子どもたちと、どうするのかを考えていたあむさん。たまたま読んでいたカタツムリの本がつながって、カタツムリ探検に行こうとなります。
「雨で嫌だという子もノリノリになって出かけて、探検に出て5分で結構カタツムリに出会えて、盛り上がったんです。もう少し行ってみようとなって進むと、カエルの大群に会って、両手でカエルをたくさん持って帰ってきたんです」
その後もバッタに会ったりなどしている内に、気がつくと畑の近くまで来ていたと言う。
そして気分が乗ってきた子どもと畑に向かうことに。
「その時の子どもたちの歩くペースは晴れている時よりも早かったんです。結局、気持ちが向いていたら雨だろうが条件とか関係なくて身体は動くんだなと思いました。心を大事にして生きるというか、そういったことを教わったんです」
あむさんは、それを旬と表現します。
「今日のその子と、明日のその子は違うんだなって。自然の中の保育だったので、天気も気候も自然も動物も昨日とはまるっきり違う状態があって、それをどのくらい味わい尽くせるかみたいなのがあると思います。そこに保育者として、その子にこう育ってほしいという未来的な願いを重ねていくものだと思うんです」
旬の今の視点を大切にしながら、未来的な視点も大切にする。前職で子供や自然から教わったことだ。
「人の心の”ここだ”というタイミングで、何かが重なった瞬間に、伸びることって子どもでも、大人でもあると思って。そこを逃さないのが大事だなと思います」
一方で、旬の今を捉えることは、仕事では大変な時もある。
「仕事だから自分がどんな心の状態でも、明日も子どもたちは来ちゃいます。担任の仕事を投げ出すわけにはいかないし、その面ではしんどさもありました」
同時に、自分と向き合わざるを得ない環境でもできます。
「子どもたちの接し方に、自分の嫌な状態も出ちゃうから、自分の状態も常に問い直しながら仕事をしないといけないなって」
子どもたちが鏡で写してくれるのだといいます。
自分らしさのヒント
大学院を卒業した後、三重県で働く選択をしたのには、いくつか理由がありました。
元々学生時代、環境問題に取り組まれていたあむさん。その後、農業にのめり込み、子どもに行き着いたといいます。それら全部つながっているのが三重の仕事だったのです。
「大学と大学院時代にぼんやりと抱えていた、自分らしさとか、自分ってどう生きるのかとか、自分っていうものをどう見出していくか、向き合っていくか・・そのヒントがありそうだなって思ったんです」
それは見学で何回も三重に通う中で確かに抱いていた感覚でした。
「やりたいとか、痛いとか、自分の気持ちって幼児さんなりに感じてよく自分のことがわかってるし、人間としての人間らしい感覚をもっている気がします。それってなんなんだろうな、というのを確かめたい感覚でした。幼児というイメージがくつがえって、むしろ一番人間が生きるっていうことの本質があると思うんです」
それはあむさん自身も抱く感覚でした。子どもと自然にいる時、自分が自分でいやすい感覚。
もっと自分自身も自分を生きたい、その想いがあった。
自分の表現がしたい
あむさんが転職しようと思い立ったのには、アートに触れていた経験が大きいといいます。
新潟や石巻、愛知トリエンナーレに行ったり、演劇を観たり、意識的にアートに触れていた時期があったのだそう。
その中で、衝動的に芽生えてきた感覚がありました。
「もっと自分の表現がしたいような感覚を抱いたんです。ありのままに生きる、に近いのだけれど、自分が溶け出してくるみたいな感覚で」
あむさんの抱いた感覚に近いことを表現されている方がいる。西田卓司さんという方です。
「やりたいことはなくてもいいから自分が溶け出せる環境があればいい、みたいなことをブログで書かれていて、その通りだなって。自分に負荷をかけて表現するわけではなくて、自分が大事にしてくれる人の中で、自分が無理なく表現できるような感覚。周りに合わせるわけでもなく、無理をしているわけでもなくて、その中間でいれたらいいなと思っています」
それは、自身と周囲の適切な心地の良いバランスでもある。
「自分がありのままでいたいというのはあるものの、そこに他者が介在していてほしいという想いもあります。頑張って人と繋がろうとしなくても、その中で溶け出してくる表現で繋がれたら嬉しいなって」
あむさんにとっての表現として思い当たる言葉があります。それは何年か前に参加したイベントで会った子から言われた言葉。
「あむさんの聴くって表現ですよねって言われたんです。そこから表現って言葉を使い出したんですけれど、聴くって表現になるんだって実感したのが大きいです」
もうひとつ、前の職場の園長の言葉で心に残っているものもある。
「人から何かを受け取ることで、その人を育てることができるかもしれないって言っていたんです。園長は子どもの斜め下にいたいと言っていて、斜め下にいることで子どもたちからいろいろなものが溢れてくるから、それを受け取ることで子どもたちが育っていけるかもしれないなって」
“受け取ること”、それは今の職場で考えても、当てはまる。
「今の職場では、しんどさを抱える子どもたちもきてくれています。そのしんどさも見なくてはいけないのだけれど、その子自身はまるごとが素敵だからそこから、何かをするというより話を聞きながら素敵なこと大切なことがたくさんあるなと受け取る機会が大きいです。むしろ自分がありがとうという感覚かもしれないです」
その受け取りも、役割や場所によって異なってくる。それぞれが、それぞれの場所で受け取っていくことが大切とあむさんは考えます。
「先生はこの部分、親はこの部分、先生でも親でもない人はこの部分、という別の角度で見てくれるのがすごく大事だと思います」
関わりしろは、たくさん
自分の表現をすること、それは今関わっている仕事でも活かせそうな感覚があるという。
「ある意味関わりしろはたくさんあるなって。居場所のスタッフも7月に始めたばかり。NPOもメディアに出始めたりはしているけれど、組織基盤はまだまだだったりします。対外的な発信など、関わる中で変えられそうな部分もあるなって」
元々そういった状況も見えていて、自分の表現もできそうだなって感覚があったといいます。
直近でやりたいことはたくさんある。それは、10年後とかではなくて今早くやりたいことだ。
「そういう意味では生き急いでいるのかもしれないです。いまここに確かに感じていることがあるから早く出したい、表現したい、という感覚かもしれません」
その感覚は二年三年ぐらいのサイクルで訪れているという。今がまさにその時なのだろう。
意思を持ってただよう
あむさんは自分用のノートを最近つくっています。そのタイトルが『マグロからクラゲへ』。去年観たプラヌラという演劇が由来だといいます
プラヌラとは、クラゲの幼生段階。ただようことしかできない存在なのだとか。
「その演劇は、泳ぎ続けなければいけないのかみたいなテーマでした。泳ぎ続けないと生きている意味がないのかみたいな鋭い問いかけがあったんです」
泳ぐと反対の位置にある言葉が、あむさんか度々口にしている”ただよう”。
あむさんが目指すのは、その両者の間だという。
「ただようと泳ぐの微妙な間が良いなと思って。周りに流されているわけではないんだけれど確かに意思をもってただよっているというか、そういう状態になればいいなと」
意思をもってただよう。本当に流されているわけでもはく、心地よいところは流れていく感覚。
それは今のあむさん自身を表現しているような言葉の気もします。
「ただよっている自分をちゃんと味わっている時間を取ろうと思えています。今心が動いているから、それを感じてみたいなって」
自身の心の保ち方も最近分かってきたと話します。
「心の感度が落ちてきたなと思ったら芸術に触れに行ったりして、感度を研ぎ澄ましたりします。多摩川の河原に行く時間を週に1時間は作るなどしています。流れが早くなるとただよえなくなるから、ただようための意味のわからない時間を意識的に大事にしないと流れていってしまうから」
いままでは無駄だと思ってた時間。しかしそれは、意思を持ってただようために、必要な時間だったと気がついたのです。
「結局そういう空間とか場所を作りたいんだと思います。意味のある場とかエネルギーを使う場とかをやりたいわけではなくて、ただ存分にただよえる場所をつくりたいんだなって」
あむさんが強くそう思うのは、その時間があまり無くて、でも必要だと感じるからでもあります。
「自分の心を誰かと感じられる時間でしか、人は進んでいけないんじゃないかと思います。この不確実な時代の中で自分が感じたこととか感覚ほど頼れるものって無いと思います。だからこそ、それを大事にしたいです。」
あむさんは続けます。
「他の場所でみんな頑張りすぎている。だから、ただよう自分を大事にできる場所をつくりたいです」
自分との心地よい距離感
最後に、あむさんがつくりたい場所についてもうすこし詳しく話してくれました。
「友達がブログで紹介していた本で、川上未映子さんが書かれた『夏物語』があります。その本の中で人ってなんでお酒を飲むのかという話があって、結局みんな自分から逃げたい時があるからなんだというのが書かれていたんです。それまで自分と向き合うのをポジティブに捉えていたけれど、そればっかりでは、しんどいよなと思うんです。前の仕事もそうだけれど自分ベクトルから放たれた時に感じる自分も自分だと思って」
他のいろいろな自己啓発系のイベントもある中で、あむさんが目指すのは自分との心地よい距離感を探すもの。
「関わりの強度を弱くして、結局は自分と向き合っているんだけれど、向き合うことを目的にもゴールにもしていない。ただようことは、自分と向き合うこと、今の自分と違うのも自分だと気づくことだと思います」
あむさんの瞳は、今とほんの少し先の未来を、まっすぐ見つめていました。
おわりに
あむさんと初めて会ったのがいつだったのか、どのようなキッカケだったのか、はっきりとは覚えていません。
ただ、はっきりとは覚えていないもの、何かでつながって、その後も、こうして定期的に話したり、一緒に何かできていること、それが逆に良いなと思っています。
「意思をもってただよう」
その言葉に表れている通り、やさしく、あたたかい雰囲気の奥に、いつも何かを考えて、表そうとしている姿に勇気をもらいます。(れい)