「その人が持つ、本当の力や物語を、より多くの人に伝えたい」


イレギュラーな選択。でも後悔はしていない

しょうへいが働いているのは、NPO法人WELgee。就労や住居等の分野で、日本に逃れたばかりの難民と日本人とがつながる機会を作っているNPO法人だ。

その中で、PR担当として、日々奮闘している。

「”難民”も突き詰めれば人。人間だけれど、国に守られない状態、どこにも所属がない状態。”難民問題を解決したい”より、ただ、そういった人たちが持っているタフネスや、逆境を背負った人たちが持つ価値を発揮できる環境を作りたい。日本でもそういう人たちはいる、そう感じていた時に巡り合った団体。点と点が繋がった感覚です。」

難民の人が持っているタフネスを発揮できる場所を。彼がそのように思うに至った背景には、留学地での親友との出会いが背景にあった。


18年間千葉から出たことがない

話は少し昔に遡る。千葉の高校に通っていたしょうへい。少し意外なことに、大学入学まで海外に行ったことがなかったという。

「18年間千葉から出たことがなかったんです。自分の親が公務員なんですけれど、高校の頃、自分も公務員になったりするのかなとか、日本ってあんまり希望ないなとか思っていました。」

そんな、しょうへいに、高校2年生の時、転機が訪れる。同世代の留学生が海外から来て、2週間一緒に過ごす経験をする。

「自分より遥かに色々な経験をしている人たちがたくさんいました。サークルに8個入り、スポーツやボランティアなどの経験を積んでいる人や、自身の救われた経験から、麻酔に関しての専門の医者を志す人など明確な価値観があって、WANTがしっかりしている人とたくさん出会いました。」

そして、その体験は、しょうへいの進路選択にも影響を与えます。

「自分と同じ年代で同じ時間を生きてきた中でこんな面白い人たちがいるんだ!と思ったんです。そして、海外に行きたい、留学に行きたい、それが大学選択の一つの要因となりました」

そうして、早稲田の国際教養学部に進学をする。周りに帰国子女が多い環境。英語で授業が行われ、海外留学が必須の環境。まさしく、しょうへいが望んだ環境。

「始めは苦労しました。聞くことはできたのですが、書くことや、ディスカッションができない…一行書くのに30分程かかっていました。大変なこともあったのですが、大学に入る理由が、色々な人に出会うためで、その想いがあったから、苦ではなかったです。」

そう笑います。


環境教育を学びにスウェーデンに留学

そして、大学2年の時、念願だった留学に赴きます。留学地に選んだのはスウェーデン。その理由は二つあった。

「一つが自分の父親からもらった本です。その本には、スウェーデンが、いかに福祉国家で、その根底には他者への共感があることが書かれていたんです。こんな国が世界にあるのか!と、驚いたのを覚えています。もう一つが大学の先生の影響。環境教育を学びたかったんです。」

福祉と環境教育を学びに行った留学先で、しょうへいが見て、感じたことは、移民や難民、そして国としてのそれらに対する姿勢だった。

「福祉国家、ということは、国民に対しての保護の意識が強いんです。そこには、スウェーデンが元々国民でない人が移民してきている背景があります。」

しょうへいが留学に行った2015年の冬、丁度シリア難民が社会問題になっていた。

移民局が想定した2倍以上の難民が押し寄せ、シェルターと予算が足りない。今までの寛容な政策から、ボーダーコントロールをせざるを得なかったといいます。

「友人が言っていた言葉で印象的なものがあります。一度”WELCOME”という姿勢を示したなら、それ貫き通さなければならない。しかし、スウェーデンには、それができなかったんです。」

まさに、Weの境界が問われている、と話す。

「Weの部分とは、シリアの国の人と出会ったことがあるか、とか、体験として出会いを持っているか、とかだと思います。全く知らない国には、最初ステレオタイプがあると思うのですが、何か体験があると相当違うと思うんです。」

例えば、スウェーデンは、片親が外国人なことが多く、外国人比率が高い。だから外国人に対して寛容な部分もあるという。


シェアハウスでの出会い。「シリアから徒歩で来た」と、彼は言った。

国としての姿勢を感じた他に、”人との出会い”という観点でも、今のしょうへいを形作っている出来事があった。

「留学ではシェアハウスに住む予定でした。金髪美女と過ごせる、イケメンの男子がいるのでは?そんなことを考えながら、住む予定のシェアハウスに向かっていました。」

しかし、そこで出会ったのは、しょうへいにとって、少し予想外の人でした。

「『シリアから徒歩で来た』と彼は言ったんです。」

中東系の彼は、5人兄弟の一番上で、母国でコンピュータサイエンスを学んでおり、大学で3番に入る程の成績。ドイツに大学院の入学、しかも奨学金ももらえる形で、決定をしていた。そして、首都のダマスカスに留学証明書を取りに行った際に、2011年の反体制デモが起きた、と言います。

「彼は、なぜシリアに紛争が起きる土壌があるのか、自分自身が逃げるその日の話、どうトルコに逃げて、生活をしているのかを話してくれたんです。始め、徒歩で来れるわけないと思っていたんですが、徐々に実態を持って感じられてきたんです。」

これは作り話なんかではない、そう感じたと言います。

「彼は、正職員でもないので、スウェーデンで一日何時間も働いても、そこまで多い賃金にはならない。そして、そのお金をトルコの難民キャンプの家族のもとに送っている。他にも、シリアの料理を作ってくれたり、文学のこと、自分が何をしてきたのか、そして、家族のこと、宗教のこと、を語ってくれました」

元来、人からの影響をよく受けるタイプ、そう自分でも認めているしょうへい。スウェーデンのシェアハウスでの出会いは、彼に大きな影響を与えた。

留学先のスウェーデンでのシェアハウス


生きている心地がしない

留学を終えて日本に戻ってきたしょうへい。
彼を待ち受けていたのは、壮大な喪失感でした。

「スウェーデンにいた時が人生の中で一番幸せでした。尊敬できる人に囲まれて、ドキュメンタリーを撮ったり、やりたいことを実現できたり。留学中は、何の責任もなく、やりたいことに集中できていたんです。そのためか、留学から帰ってきた後、目的が達成されてしまった、今までの努力が報われてしまった、自分の人生の幸せの絶頂期が来てしまったと感じていました…」

スウェーデン留学中に撮影したドキュメンタリーの一場面

帰国後は、燃え尽き症候群になっていたと話す。その期間が、結構長かったという。寝込んだり、インターンを始めてもすぐに辞めたり、行き詰まりを見せていた。

「口癖が、生きている心地がしない、でした(笑)」

そこに就職活動も入り、6ヶ月ぐらい燃え尽きた状態が続いていた。

「しまいには遺書みたいなものを書き、これ以上の幸せはない、幸せを求めるのなら自分は全うしたと、書いていました…」

振り返ると、留学では、時間、場所、人の点で全てが新鮮で特殊な環境。
尊敬できるシリアの友人、シェアハウスには、博士課程のユーモラスな人もいた。

場所も自然豊かで、朝起きたら気持ちよく、朝日をあびながら、1日が始まる。時間も制約がなく、ある意味、特殊。そんな、特殊な環境からある種戻ってしまった。

「色々な人に迷惑をかけました。友人や先生が、研究室で朝まで語るとかをやってくれたりしたのですが、まだ、蟠りがあったんです。」

そんな時に、しょうへいは、ある本に出会う。

ヴィクトール・フランクルの『夜と霧』

「強制収容所で生きる人間が考えられる底の底の地獄を描いた本。そこには、限界まで栄養を絞り、働いた際、次に迎えるのは精神的な死である、とありました。いつ解放されるかわからない、そもそも、未来に幸せがくるかわからない、何よりこの瞬間が辛い。そんな時に、過去の栄光にすがるしかない。そうすると、内側から死んでいく。」

「そんな人に対して、ビクトルは、自分が人生に何を求めるかではなく、人生があなたに何を求めるのかを考えるべき、と説く。一人一人の苦しみは誰も背負えない。だからこそ、苦しみと向き合い続けることが初めてあなたがあなたらしく、その世界に何かを残せる瞬間なのだと。」

その言葉に、しょうへいは、自分と重なる感情を抱く。

「境遇は違うけれど、過去だけを見続けることは、自分にそっくりでした。過去だけを見続け、縋っていた自分に、背中を押されました。」

ずっと留学という”過去”を見ていたしょうへいが、前を向いて歩み始めた瞬間はその時だった。


始まりは、再び、シェアハウス

しょうへいがWELgeeと出会ったのは、2017年の11月頃。

その頃、しょうへいはインターンをクビになったり、プログラミング勉強して、アプリを作ったり、大学を休学して色々活動をしていた。

「北海道から帰ってきた友達が、『東京に難民者向けのシェアハウスを作るんだけれど、一部屋余っていて、しょうへい、そういうの好きそうだし、来ない?』と誘われたんです。面白そう、と30秒でOKと返事をしました。」

それが中目黒にあるWELgeeの運営するシェアハウスだった。

「色々なことにびっくりでした。」

住んでみて思ったことをそう話す。

「一緒に住んでいた人の一人が、アフリカのアンゴラの男の人だったのですが、日本の歴史では語れない歴史を話してくれたり、一方で、働く場所に困ったり、日本の中で最低限の権利しか保証されていないことを聞いたりしました。一年間一緒に住んでいて、時には喧嘩をしたこともあったのですが、人間味溢れる人でした。その他にも、元牧師の方や、MBAに行ってきたエチオピアの方、3歳児と7歳児を抱えたお父さん、13人ぐらいの人と一緒に住んでいました。そういう人達と一緒にいて、一人の人として、学ぶことが多かったんです。」

そういう人たちの話を受けて、自分が何をできるかわからなかった、そうしょうへいは話します。ただ、考えるうちに、自分がWELgeeに関わることを決心したと言います。

「逃げてきた人たちが目の前にいて、こうして日本にいる。日本にいるけれど、日本で暮らすための障壁がある。元々、WELgeeに関わるというより、ただ誘われて住んでいただけでした。ただ、この人たちが社会で活躍できないのはもったいない、本当にもったいないと思ったんです。起業経験があったり、大学院での経験があったり、見えざるそういう人たちが、眠っているのがもったいない。」

もう一つ、WELgeeに関わることを決断した理由を話してくれた。

「WELgeeがNPOとしてすごくいろいろな広がりがあると感じたんです。投資家の人からオフィスを借りたり、戦略コンサルの方からアドバイスをいただいたり、思いのある行政書士の方が顧問を引き受けてくださったり。WELgeeのシェアハウスに住んでいる方も、日本で働けない人もいるのですが、ブロックチェーンとか仮想通貨で何ができないか、とかそういった考えを持っている人もいて、すごい繋がりで何か変わるかもしれない、そう思ったんです。」

やる気もあって、意欲もある人、そのような、モチベーションピラミッドの一番上の人にまずは何かしたい、そう感じた。

新卒でNPOに入る決断をした、しょうへい。始め、親御さんからも反対の声があったといいます。

「始めは反対されました。いつも、しょうへいは自分で何かやりたくなるけれど、一旦大きな組織に入り、いかに社会が回っているか見た方が良いんじゃないと。ただ、WELgeeが開催しているサロンとかに連れて行ったり、代表と話してもらいました。結果、元々、親も貧困問題とかには関心があったこともあり、今では応援してくれています。」



PRを極めたい

今、WELgeeでしょうへいが担っている役割はPR。PRとして、何ができるのか、そしてPRを極めるべく、日々奮闘している。

「未熟者だし、自分は記者ではないし、でもPRをすごく極めたい」

そう語る背景には、母校の早稲田大学で受けた授業の影響がある。

「元々、PRは電車広告みたいなものと思っていたんです。ただ、早稲田の授業でPR特論というのを受けて、様々なステークホルダーの関係性をいかに構築するか、その戦略を考えるのがPRと学びました。」

授業の中で、先生がPRが国を変えた事例を話してくれたという。
ある国でレシートを電子化する法律がPRの力で実現されたり、日米貿易摩擦の時に、日本側の理解を促進するPRがされたりした事例がある。

様々なステークホルダーがWin-Winになる仕掛け関係を作るために、メッセージングとして、どういう素材が必要か、どういうチャネルを使うかを考えるのがPRだと学んだという。

「本当にすごく難しいです。ただ、その力を自分で高めたいと思うんです。」

上司が居らず、自分で勉強しなければならない環境だと話してくれた

行政に対して、WELgeeの施策を一緒に作ったり、真似してもらったり、一緒にパートナーシップを結んでやりたい、そういう構想を話してくれた。

「将来的には、専門性をつけて、国とか社会を動かせるようなPRパーソンになって、社会を変える力をつけたい。」

PRパーソンとして尊敬する人を尋ねると、少し意外にも、「ヴィクトール・フランクル」そう答えてくれた、しょうへい。

「希望を持てずにいる人に対して言葉をかけて、勇気付ける。それって真の意味でのエンパワーメントだと思うんです。単純に綺麗な言葉を並べるのではなく自分がともに苦しみ出した、パッションとか、共にトークして生み出した言葉、それが、人生を変えたりする。」

そして、最後に、意気込みを語ってくれた。

「難民の方の、本当の力や物語を、より多くの人に伝えたい。一度夢を諦めたりした人がいる時に、出会いとか、新しい価値とか生まれたりして、より多くの繋がりが生まれる瞬間を作りたい。」

*NPO法人 WELgee

*しょうへいがスウェーデン留学中に撮影したドキュメンタリー

紹介記事はこちら

『夜と霧』ヴィクトール・フランクル著

『PR NOW PRで、社会を変える奮闘記。』

しょうへいが、PRの理論やトピックスについて書いているブログ。
一読者として、純粋に学びになって面白いです。